実は9月にも諏訪に行っておりました。 去年から1年のうちに4度も訪れていることになります。
どんだけ好きなんだオレ(^^;)
さて、話を主題に戻そう。 その際たまたま上諏訪にある手長神社の宮司さんとお話しをする機会があり、そこで非常に興味深いお話を伺うことが出来た。 ”諏訪では神様を創る”と言う話だ。
諏訪を知らなくても七年ごとに行われる”御柱祭り”のことを聞いたことがある人は結構多いと思う。 山から切り出した神木の幹を神社の四方に立てる祭りのことだ。 実はこの御柱祭り、諏訪大社の四社(前宮・上社・春宮・秋宮)だけではなく諏訪地方に有るほぼ全ての神社で行われている。 諏訪大社、四社の柱を立てる神事は4~5月頃(メインはゴールデンウイーク)だがそれ以外のお社では9月頃に行われることが多い。 大社の御柱祭り以降どうやら毎月どこかしらで御柱祭りをやっているらしい。 諏訪地方の方々は御柱祭りが大好きで熱狂的に楽しんでおられるそうだ、楽しげな人の輪を見るとそこに加わりたくなるのが人の常。 で、御柱祭りの際にはとんでもない数の人で諏訪がごった返す・・・らしいのだけど、そこで上述の”神様を創る”話につながってくる。
御柱祭りの華、中心にいるのは実際に御柱にふれて担いで立てている地元衆だ。 地元衆の中でも特に神前に奉公し選ばれた者でなければその輪の中に本当の意味で加わることが出来ないのは容易に想像出来る。 一本の御柱に100人程度の男衆が群がるとして四宮合わせて1600名程度の人数が担いだりかかわったり出来るとは思うけれど諏訪地方の人口が当然そんな数で納まるわけはないので、祭りの期間中の名誉職であることは想像に難くない。 「御柱の何が良いのかって!?担げば解る!」というのは御柱祭りが紹介されるときに良く聞く言葉であるけれどそもそも担ぐ機会自体が溢れている訳じゃない・・・かといってあきらめるほど少ないチャンスではない、というのが人を惹き付ける魅力になっていそうだ。 かくして七年ごとの御柱祭は遥か太古の昔から大盛り上がりしながら連綿と続けられてきたのだろう。 まあ、ここまでの流れは諏訪に住んだこともない私が想像しているだけなので正確でない部分はご勘弁いただきたい。 こういう前提があるのだろうと想像しているだけです。 これ以降は実際宮司さんから聞いたお話。
さてこの様な状況下で新しく諏訪地方に移り住んできた方々がどうしてきたのか?
移り住んできて御柱祭を知りその楽しさに目覚めたは良いモノの自分達が柱を担げる機会がない。 → 自分達でも御柱を立てることが出来る一族神・屋敷神を創って祀っちゃえ!
ということで諏訪地方に移り住んできた方々は自分達の家族一族専用の神様の祠を作ってソコに自分達の御柱を立てるのだそうな。 「ほんとかよ、それ!?」と聞いたときは単に驚いていたのだけど、神社巡りをして現地の方々と交流をしていくうちにソレが本当だということがうっすらと解ってきた。
御祓神社という小さなお社(御神木はめちゃくちゃデカイ)を探していたときのことだ。 目安をつけていった場所の近辺で地元の方に道を聞いた、その際そのお宅から二軒ほど離れた位置にある小さなお社もそのたたずまいが良い感じで気になったので、ついでに何を祀っているお社なのかを聞いてみたのである。 「ああ、あれはね。うちの神様w」「ここら辺はね、うちも含めて伊藤って名字なの。 だからあのお社は”伊藤家のお社”なのよ~」とのお返事。
“伊藤家の食卓”ならぬ”伊藤家のお社”が実際に存在したのである。
また、別の機会で知り合った大島さんご夫婦(前宮のど真ん前で近々茶房をオープンするらしい)にも伺ったところ「ああ、うちにもあるよw」と、さも当たり前の如く返事をくれた。 どうりで街中から山中までそこら中に御柱が周囲に立っている小さな祠があるわけだとこれで納得がいった。 山の中で見つけた大木の根本には石造りの小さな祠があって側には”市の天然記念物・岩波マキ”という説明書きの看板があった。 ”岩波マキ”というのが検索してもなんの事やら解らなかったけど”岩波さん家の祠がある槇の木”って意味なのだろう。 他でも”池田マキの祠”という添え書きを見たことがあり、この解釈で多分間違いないと思う。
この神様を創ろうって感覚、何となく自分にも解る。 個人的解釈であり異論もあるとは思うが、コミケに参加する人の気持ちに似ているような気がするのだ。 ボク達はコミケを年に二回のお祭りだと言うことが良くある。 あれをお祭りだとすればサークル及びスタッフとしてのコミケへの参加はどういった意味を持つのだろうか? 少なくとも私は初めて訪れたコミックマーケットを楽しそうな場所だと思った、そしてその楽しそうな人々の輪の中に入ってみたいと思った。 祭りに参加する者として祭りを盛り上げるべく自分の出来る範囲で輪の中に加わっていったような気がする。 祀った社の名は日本ワルワル同盟、祭りの度に柱を立てる(新刊を創る)わけだ。
私は作家だと言うこともあるのだろうけど、神話の中に見える”当時の人々の営み”に現代の自分達に通じる共通性を見いだしたりすると非常に楽しい。
ギリシャや日本の古代の神話なんてほとんど実際にあった遥か太古の出来事がハッタリ含みで伝わってきているのだろうし、現代の出来事だって千年も経てば神話扱いになっていても不思議じゃない((正確な情報伝達手段がなければだけど)。 試しにコミケを神話風に紹介してみよう。
昭和・平成の御代に”呼魅気”と呼ばれる祭りがあり人々大いに集まり栄えたという。 ”蠱御気”は米澤尊(よねやんのみこと)が開き、後に米澤尊の鼻血・目やに・耳クソから生じた三奇神に治められることとなったという・・・
折角なので記紀神話風にやってみました(^^;) 奇神様は許してくれると信じています! 何年かすれば”コミケの国譲り”とか”コミケの東征”もあったりするのでしょうか。
それにしても諏訪の神話は妙に生々しい。 そしてどのようなことが起こっていたのかが解りやすい。 代表的な例として今回訪れた習焼神社の由緒書きが非常に気に入っている。 実際に書いてあった文章を紹介しよう。
祭神・洲羽若彦命は真志野の妃神のもとに来られた。後に一門一族を引き連れて遠州地方へ鬼退治(開拓)に出かけられた
・・・鬼退治(開拓)ってぶっちゃけすぎ!(^^;)
○オヒ様の荒御霊が大蛇になって暴れたので混対応命(こんざつたいおうのみこと)が蛇退治(行列整理)をした・・・ ってくらいぶっちゃけてる。
楽しいなあ、もうw